4月下旬のポカポカと暖かい朝。満開の桜の木の下に無数のテントが張られています。お花見の場所取りでしょうか。いいえ、違います。これは石巻のとある所に設営された救援ボランティアの方々のテント村なのです。全国から集まる彼らは完全自立で移動手段も食料も自ら確保して復興のため、毎日、埃にまみれて働いています。まさに、人が持つ善意を行動として表しておられます。
そのすぐそばには、国防色のテント村が・・・。
こちらは自衛隊の野営地です。自衛隊の方々は、津波直後からまだ水の引かない被災地に取り残された人々を担いで助け出したり、大活躍されました。その後は最も過酷な仕事にも当たっています。自衛隊員と言えどもやはり人です。精神的なダメージは大きく、メンタルケアも必要とされています。自衛隊のトラックやヘリコプターがごく普通に町で見られます。そうそうあってはいけないことですが、実に頼もしく感じます。
魚市場の方に足を向けましたが、地盤沈下のためでしょうか水が溜まってそばに寄れません。
鉄筋コンクリートの建物は残っていましたが、水揚げ岸壁に沿って作られた延長652mの上屋はかなり破壊されたようで、こちらからは見えません。日本一の規模を誇る石巻魚市場は水産大国宮城の象徴でした。一刻も早い復旧が東北の水産を再生するために必要です。
石巻魚市場近くを走っていますと、巨大な赤い物体が目に飛び込んできました。
こ、これは、鯨製品で有名な木の屋さんの鯨缶タンクではありませんか。ここは、木の屋さんの工場から200mは離れています。こんなでかい物が流されてくるとは・・・。大津波の威力に絶句です。ということは、工場も相当やられたに違いありません。でも、通行止めで近くには寄れませんでした。なお、この横たわる鯨缶はGoogleMapの航空写真モードでも確認できました。
左の写真が木の屋さんの工場前にあった震災前の姿です。これはこの界隈の名物で鯨加工品の象徴でした。
右の写真が木の屋さんの直売所で見かけた鯨大和煮の缶詰です。これがモデルとなってタンクがペインティングされたのです。子供の頃、学校給食で食べさせられた鯨の大和煮はちっとも美味しくなかったのに、缶詰の大和煮は別物のように美味しかった記憶があります。大人になって食べた木の屋さんの鯨缶はさらに美味しく感じました。ただただ、復活を衷心より祈るばかりです。
水産都市石巻の中核部分である魚市場とその背後の加工団地周辺の被災状況は目を覆いたくなるような凄まじいものでした。水産都市の成り立ちは魚市場に端を発します。魚市場の水揚げ機能と流通機能が回復すれば町に活気が溢れ、水産加工業も連動して回復すると思われます。日本人は第二次世界大戦後の焼け野原から立ち上がりました。今回の試練も必ずや乗り越えていくことでしょう。
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