復旧の日まで(1) 【宮城に帰ろう】
カテゴリー: 3.11震災関連
その日、私は東京の霞が関にあるビルの8階で午後2時からの会議に出席していました。議事が順調に進められているさ中にその揺れを感じ始めました。二日前にも仙台で大きな地震をくらっていましたので、何のこれしきすぐに治まるだろうと高を括っていました。ところが、揺れは治まるどころかシェイクするように激しくなり、古いビルの壁にはバリバリとヒビが入り始めました。机にしがみついているのがやっとで下にもぐる余裕など全くありません。このビルが崩れてしまうのではないかという恐怖感が襲ってきます。
いったい、どれくらい揺れが続いたのでしょうか。2分くらいはあったように感じました。いつか来る関東大震災の日に東京出張なんて私は何と不運な男なんだと思っていたところ、誰かのワンセグ情報によると震源は宮城県沖!!。東京でこんなに揺れたら、震源の宮城はどうなってしまうのだとややパニックになっていますと、それに追い打ちをかけるように10mの津波が押し寄せるとの情報も入ってきました。
しばらく、書類が散乱した部屋でテレビにかじりついていましたが、強い余震が続くのでビルの外へ退去。その時の写真が上のものです。霞が関は大混乱、ビルから飛び出してきた人々で歩道は埋まっていました。
とりあえず、余震に備えて安全な日比谷公園に足を向けました。
普段通りでしたら、沈丁花の芳香が漂う春ののどかな日比谷公園ですが、今宵の宿になるのかも知れない等と考えながら東京駅に向かいます。
だが、待てよ。これだけ強い地震なら交通機関にも影響が出ているはずだ。テレビが見れるところで情報を収集しようと立ち寄ったのが帝国ホテルさんでした。
カフェラウンジで一息入れてと思ったのですが、テレビはありませんでした。ところがその後の対応が素晴らしい。テレビを見せて下さいとお願いしますと、ホテルの各所に大型液晶テレビが配置され、情報提供をしてくれたのです。すぐにそれらの周辺は人だかりとなり、何時間も固まったままでした。
ヘリコプターによる閖上方面の津波の生々しい映像が流され、周囲からはうめき声も聞こえてきます。いったい、宮城はどうなっちゃうんだ。自分はここで何をしているんだという気持ちが込み上げました。その後、都内の交通はおろか、東北新幹線も復旧見込みが立たず、夜を迎えます。しかし、帝国ホテルさんは我ら難民を丁重に扱い水や缶入りパンの支給もして下さいました。通勤難民も含め一時1000人はいたのではないでしょうか。
帝国ホテルさんの廊下で一夜を過ごした朝、再び水やパンに温かいスープまで支給して下さいました。
この缶入りパンが想定外に美味しかったのです。乾パンではなく、焼いたパンが缶に詰められています。しっとりとしていて、甘みがあり非常食とは思えません。ただ、開ける時にポンと大きな音がするのでみんな寝静まった夜中に開けると顰蹙を買います。スープも一流ホテルのシェフが作ったものですから最高でした。
帝国ホテルさん、本当にありがとうございました。
翌日も東北新幹線の復旧見込みが立たず、都内の交通が怪しいので、新橋のビジネスホテルを確保しました。さらに翌日、ネットで宮城への帰路を探索し、動いている上越新幹線で新潟に行き、そこから羽越本線で山形県の鶴岡に行き、さらに、バスを乗り継いて仙台に入るのが可能であることを知りました。ただ、途中でダイヤの乱れがあることも想定し、翌朝に決行することにしました。
果たして、この計画は吉と出るか、凶とでるか・・・
もし、陸羽本線や山形県内のバスの運行が途中で止まったら、車中泊かネット環境のない宿での待機になるかも知れません。これは賭けです。
明朝の宮城に帰ろう計画実行を前に子供たちが下宿する練馬区に向かい、両親の介護のために上京していた妻とも合流し、想定外の一家の全員集合となりました。次男(愛犬15歳)もボケが進んでましたが、元気でした。その後、子供に大きなバッグを借りて、保存食や蝋燭などのサバイバルグッズを買い集めました。ライフラインが止まった宮城で必需な卓上ガスコロンのカートリッジガスも探しまくりましたが見当たりませんでした。途中の山形でも可能な限り探したのですが、売切れでした。震災を受けていない地域でもすでに食品やサバイバルグッズの買い溜めが始まっていたのでした。
なんとか14時間かけて3月14日の夜に自宅に戻りましたが、周囲は真っ暗。それでも、自宅の外観は異常がなかったのでほっとしたのも束の間、中に入るとそこはまるで瓦礫の山。片付けは明日以降にしてとりあえず空いたスペースで寝ることに。
愛用していたマグカップも壊れ、これを蝋燭立てとして明かりを確保しました。
戻ったの日の夜は、缶詰のイワシとお茶で夕飯として、早々に眠りにつきます。
暗闇の中で見た我が家の有り様は想定以上に凄まじい。明日の朝が思いやられますが、地震発生から三日目。心身共に疲れ果てていましたので散乱した家財の中でもすぐに眠りにつきました。明日からのサバイバル生活も考える間もなく・・・。
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