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1 なぜイタリア? 平成遣欧使節団
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この地震による巨大津波は、当初、平安時代前期869年の貞観三陸地震以来と報道され、1000年に一度の大災害として世に広まりました。しかし、歴史記録や仙台平野の堆積物調査から、ちょうど400年前の江戸時代初期1611年に発生した慶長三陸津波が同規模であったことがわかっています。宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)の濱田直嗣館長は当時の藩主である伊達政宗はこの震災復興のために太平洋の対岸のヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)との貿易を考えたと推察しています。
徳川家康の許可を得て、難破して船を失ったスペイン人のセバスチャン・ビスカイノの力も借りてガレオン船(大航海時代の大型運搬船)を建造します。震災から2年後の1613年には藩士支倉常長や宣教師ルイス・ソテロを代表とした慶長遣欧使節は牡鹿半島の月浦を出航しました。その翌年にはアカプルコに到着しますが、ヌエバ・エスパーニャでは通商の承諾を得られず、結局、宗主国のスペイン経由でイタリアのローマ法王にまで謁見することになりました。ローマ法王との謁見は本年からちょうど400年前の1615年になります。
徳川家康の許可を得て、難破して船を失ったスペイン人のセバスチャン・ビスカイノの力も借りてガレオン船(大航海時代の大型運搬船)を建造します。震災から2年後の1613年には藩士支倉常長や宣教師ルイス・ソテロを代表とした慶長遣欧使節は牡鹿半島の月浦を出航しました。その翌年にはアカプルコに到着しますが、ヌエバ・エスパーニャでは通商の承諾を得られず、結局、宗主国のスペイン経由でイタリアのローマ法王にまで謁見することになりました。ローマ法王との謁見は本年からちょうど400年前の1615年になります。
あれから400年。伊達藩民の末裔である私達はイタリアとの交流と交易を目指した平成の使節団として立ち上がりました。とは、言っても皆様、職種も違えば目的も様々。それでも、お互い協力し合ってそれぞれの目的を達成しましょうという緩やかな関係です。日本酒メーカーの方はイタリアで試飲による紹介を、蒲鉾メーカーの方は世界中にカニかまは広がっているのに対して本来の蒲鉾が伝わっていないことを正そうとして。また、新たに宮城でオリーブ栽培を始めようとする方はイタリアの北限で栽培している農家との交流を求めて渡航します。
その彼の職場(イタリア国立環境保護研究所)はベネティアと同じベネト州のキオッジャ市 Chioggiaにあります。卒業後も10年間隔くらいで行き来しておりました。このキオッジャ市は地理的にも歴史的にも産業的にも社会的にも宮城県の塩竃市とそっくりなのです。その共通性をリストアップすると以下のようになります。
塩竃市とキオッジャ市の共通点
塩竃市とキオッジャ市の共通点
③ 魚料理のレストランや料理屋が多い。
④ 観光船や定期船のターミナルがある。
⑤ ヨットハーバーやマリーナがある。
⑥ 海洋環境や水産資源に関する国立の研究所がある。
⑦ 鱈(タラ)を使った郷土料理や加工品がある(ブワタラとバッカラ)。
⑨ 古くから製塩が盛んに行われていた。
⑩ そして。。。地名のスペルが5文字一致。
SHIOGAMA
CHIOGGIA
8文字の文字列のうち5文字が位置とともに一致します。
この驚くべき類似性にキオッジャ市も大いに盛り上がり、一般市民も参加する文化交流シンポジウムを開催しようということになってしまいました。早々にポスターも作成してしまう熱の入れよう。シンポのタイトルは CHIOGGIA incontra SHIOGAMA (キオッジャが塩竃に出逢った)です。
塩竃市観光物産協会さんのお力添えで塩竈市長の親書も預かることができ、交流と交易を目指す平成遣欧使節団としての風格も帯びてきたのです。^^
さて、異なる思惑を持った有志の集団ですが、イタリアとの新たな交流と交易という目的では一致します。今回のミッションを礎に宮城の食産業がイタリアと新たに繋がり、二つの港町の交流が芽生えれば、大成功と言うことができます。それに向けてのアクションを連載で書いて参ります。もちろん食べ物BLOGですので、食を話題として話を進めます。お楽しみに。連載予定の目次は書き終わるまで先頭から2番目の記事に執筆状況とともに貼り付けておきます。記載済みの記事は目次からも入れるようにリンクを張っておきます。
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2015/08/29(土) 05:00 | trackback(0) |
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