今日であの大震災から2年が経過しました。被災地で暮らす私たちですら、あの日のことを思い出さない日もあるようになってきました。ましてや、被災しなかった地域の方々は震災関連のニュースを見て、「そう言えば、そんなこともあったなぁ。」と過去の出来事になってしまったかも知れません。
それはそれで、仕方がないと思います。悲しいことや辛かったことはいつまでも背負っていては前に進めません。
瓦礫が片付いた元の街は地盤沈下もあり、いまだに本格的な復興は見られませんが、新たな土地で工場や店舗が次々と営業を再開しています。みんな前向きに頑張っています。ただ、生産・営業活動が止まっていたブランクが顧客離れにつながり、その取り戻しが大きな課題となってます。復興イベントに集まる人も減っています。
ただ、忘れてはならないこともあります。それは大地震や津波で何が起きたかです。
そのために被災した建物や船をモニュメントとして残そうという動きがありますが、悲惨な記憶を残したくないという住民感情との間で対立も起きています。
確かに身内を失った方も多く、その記憶を毎日のように呼び起こされるのですから堪らないでしょう。どこかにメモリアルパークでも造って、そこへモニュメントを移設するのはどうでしょうか。でも、これでは被災した現場で起きたこととして伝わらず、過去にどこかで起きたこという抽象的な認識となってしまいますね。やはり、今立っているこの場所で過去にこのような事が起きたんだという臨場感が津波の怖さを伝えてくれるのです
原爆ドームはどうやって同意を得たのでしょう。長い期間、周辺に人が住める状況ではなかったのでしょうか。
今回の被災地でも移転区域の中に残されたものであれば、まだしも今後、住宅地や商業用地として復興させていく中に残された負の遺産の場合、説得には長い時間が必要でしょう。
一つの大きなモニュメントが一カ所にあるより、津波の浸水区域内のどこでも認識できる爪痕の方が防災上も実用的だと思うですが、前記のように生々しいものは受け入れられません。
そこで、津波浸水区域内の電信柱に水没した位置を示すマークを付けるのはどうでしょう。
予算や実施主体はあとで考えるとして、これならば、日頃からどこまで逃げれば良いか学習できますし、津波の凄さも次世代に伝わると思います。個人の住宅にマークを付けるのは無理でしょうけど、公共施設や学校などは是非ともご協力願いたいですね。
浸水地域の大部分は何も残ってないのですが、幸い多くの写真や動画がネット上に残されています。
それらの解析や地上に残された少ない痕跡などから推定することは出来るでしょう。
現在でも被災県全体で30万人以上の方々が避難生活を余儀なくされています。仮設住宅にお住まいのご老人が、先日テレビのインタビューで「もう80を超えたけど、この仮設から送られたくないよね。」と答えていました。そうですよね。一生懸命生きてきて、なんでこのような仕打ちを受けなければならないのでしょうか。この震災は国難であったはず、歴史に残し、今後の防災のためにも津波マーク運動、広がってほしいものです。
【地震発生から我が家の復旧までの記録】
【震災関連および被災地からの記事】 石巻・雄勝・南三陸・気仙沼