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塩竈の藻塩をご存知でしょうか。塩竈ではその名の通り、かつて、製塩が盛んに行われておりました。そして、塩竈の藻塩とはその伝統的な製造方法を再現して、製品化されたものです。えびすや釣具店の船長、伊藤栄明さんが代表社員を務める合同会社 顔晴れ塩竈(がんばれしおがま)が大型の竈(かまど)を作って海水を煮詰めています。
藻塩の作り方ですが、頑張れ塩竈のHPによりますと、「海藻のホンダワラに通した海水を煮詰めて作る」とされていますが、これは塩竈神社で斉行される藻塩焼神事の儀式化された製法と同じですね。藻塩の製法には諸説があるようですが、本来、ホンダワラなどの海藻使って効率的に製塩するもので、風味や旨味を添加するものではなかったように記憶しています。藻塩を使って料理する前に、もう一度藻塩について勉強してみました。長くなりますので、お急ぎの方は飛ばして下さい。^^
【藻塩について愚考する】
たばこと塩の博物館や愛知県の博物館のHPには製塩の歴史が詳しく紹介されております。さらに、豊橋創造大学の大林淳男氏の講演要旨(www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdf)も大変参考になりました。ですが、製塩の過程での藻の使い方が絞り込めておりません。よく海岸に打ち上げられた海藻が干枯らびて、白く塩が吹いていることがあります。これを利用する方法として、大別しますと焼いて灰にして海水に溶かし、その上澄みを煮詰める、もしくはそのまま海水で洗い落として、それを煮詰めるものが推定されています。
藻を焼く手法の根拠として、しばしば万葉集にある(略)淡路島 松帆の浦に朝なぎに玉藻刈りつつ、夕なぎに藻塩焼きつつ海人娘子(略)という和歌が引き合いに出されます。玉藻は丸い気泡を持つホンダワラのことですが、玉藻を焼くとは読み取れません。あくまでも藻塩と言う塩を焼くという意味だと思います。
ご存知のように万葉集は600年代後半から100年近くかけて4500首以上もの歌を編纂した文学史料ですが、現代には有難いことに万葉集検索システムというサイトがあります。これで藻塩という単語を入力して検索をかけたところ、この藻塩焼きつつの歌1首だけしかヒットしません。試しに塩焼で検索すると9首、「塩 焼」だと75首もヒットしました。
つまり万葉集には、塩を焼くとか、○○が焼く塩という表現が多く見られるのです。この時代はまだ土器ですが、海水を煮詰めて塩を作ることを塩を焼くと言ったのでしょう。そして海藻で塩分を濃縮してから煮詰めたものを藻塩と呼び、それも焼いて(焚いて)作ったのだと思います。
宮城県から出土している製塩土器は西日本より古く、縄文晩期になります。東北地方特有のバケツのような形をしています。なお、西日本では底に角が生えた丼型で角を地面に刺して安定させます。いずれも、これに生の海水を入れて周囲で火を焚き、気長に煮詰めていったのでしょう。そして、ある時誰かが干枯らびた海藻の塩を見て、表面積の多い玉藻(ホンダワラ)、松島湾ではたぶんホンダワラ科のアカモクを繰り返し海水に浸しては乾燥させ、白く塩が吹く状態にしてからそれを海水に洗い流して塩分濃度の高い海水(鹹水)を焼くようになったのではないでしょうか。
事実、塩竈神社の藻塩焼神事では鉄製の平釜に竹で編んだ簾を渡し、その上にアカモクを乗せて海水をかけています。儀式では1回だけですが、釜に落ちた海水を何回もかけては乾燥させるを繰り返せば、釜には鹹水が貯まり、海藻も塩を吹いたはずです。因みに塩竈神社の末社御釜神社の4つの釜は12世紀と15世紀のものとされており、万葉集の頃はまだ土器が主流でした。
塩竈という地名は724年に国府多賀城が造営された以降に付けられたようで、前記のように万葉集を検索しても塩竈は登場しません。ですが、紫式部の源氏物語の主人公の一人、光源氏のモデルとされている源融(みなもとのとおる)は塩竈の熱烈なファンで、塩竈に住んだとされているばかりではなく、京都の鴨川の近くに千賀ノ浦(塩釜湾)をモチーフとした庭園(六条河原院)を造っています。現在もこの地、京都市下京区には塩竈町や本塩竈町という地名が残っています。
彼は822年に生誕し、895年に没しましたが、この時代でも鉄器は貴重で、ましてや漁村の製塩には鉄釜は用いられていなかったはずです。また、宮城県の製塩土器も平安時代まで出土はしていますが、そのあと途絶えます。しかし、塩竈周辺で次世代の製塩技術である揚げ浜式や入り浜式(塩田)に移行したのだとしたら、現在まで、藻塩焼神事が伝承されるはずもありません。土器と鉄器のあいだに何か繋ぎの製塩器があって、それが塩竈と呼ばれたのだろうと推測しました。
前記のたばこと塩の博物館によりますと、製塩土器から大量生産を目指して土釜が作られたとされています。貝殻の灰や塩を粘土に練り合わせ、いわゆる竈(かまど)を作り、上部に海水が張れるように凹ませたようです。右の図はこの博物館のHPからお借りしました。上に海藻を乗せる木製の簀子が有り、それから細い割り箸のようなものが下がっていますが、もしかしたら毛細管現象を利用して、蒸発を速めたのかも知れません。いずれにしろ、塩竈という地名は鉄製の釜が普及する以前の土の竈(かまど)に由来するものだと思われます。
塩竈の製塩も中世までは盛んだったようですが、その後、前記の塩田方式が主流となり、気候的に恵まれた瀬戸内地方が主産地となっていったようです。でも、宮城県には日本の製塩の最古に近い土器が出土し、塩竈という地名もあって、その風光明媚なオーシャンビューは都人達の憧れの的だったのです。これを誇りと受け止め、藻塩の再現を果たした頑張れ塩竈の皆様に心から敬服する次第です。
さて、塩竈の藻塩を使った料理に取り掛かります。ここまで読んで下さった皆様に感謝申し上げます。m(..)m
【追記】 2013.2.17
右上の図の竈の上から垂れ下がっているものは、土竈が海水重さで潰れないように、横木を渡して上から網代釜と呼ばれる竹籠を石灰粘土で塗り固めたものを吊っているのでした。
藻塩を使って料理しますのは、塩竈汁です。秋刀魚と真鱈を使った具沢山の潮汁ですね。
塩竈汁は伝統的な郷土料理ではなく町起こしのために近年、創製されました。6人分位をまとめて作ります。材料は秋刀魚と真鱈の他にだし昆布や長葱、豆腐などで、秋刀魚の団子(つみれ)を作るために生姜と味噌のほか卵と片栗粉が必要です。汁の味付けはもちろん塩竈の藻塩だけを使います。この時期ですと秋刀魚は解凍物になりますが、鮮度の良い真鰯でもよいでしょう。
まず、秋刀魚3尾を三枚におろし、出刃包丁で叩いていきます。
すり鉢を使わくても気長にやれば、こなれます。それにあまりペースト状より肉片が残っているくらいの方が食感が楽しめます。
秋刀魚が微塵切り程度になりましたら、秋刀魚の1/10程度の味噌、おろし生姜、長葱の微塵切りを加えます。
さらに叩き合わせ、よく馴染んだら、練り合わせます。
粘りが出てきましたら、溶き卵半個分、片栗粉大さじ1杯を加えます。
さらによく練り合わせます。ちょっと柔らかいかなというくらいが美味しいのです。
鍋で昆布だしをとります。
塩竈の藻塩と料理用酒で軽く味をつけます。
秋刀魚のすり身を左手に握り、人差し指と親指の間から丸く絞り出して、水で濡らせたスプーンで沸かした昆布だしに落として行きます。
この作業、両手を使うので写真が撮れません。^^ グラグラ沸騰していますと固まる前に崩れることがありますので要注意。
秋刀魚団子が浮いてきましたら、一口大に切った真鱈と豆腐を加えます。
真鱈や豆腐は崩れやすいので、慎重に混ぜて下さい。アクを取ったら、再度、味の調整を行って、長葱を加えたら、火を止めます。
塩竈の藻塩を使った塩竈汁の完成です。白が基調な旨みたっぷりの潮汁です。
名残の柚子を吸い口にしてみました。大根や人参などあまり他の具材を入れない方が潔いですね。
寒い時は辛味もご馳走ですね。
七味唐辛子やかんずり、柚子胡椒なんかも合いますね。秋刀魚のつみれの濃い味と真鱈や豆腐の淡白さが実によいコンビネーションとなってます。
塩竈の活性化と歴史ロマンのPRのために頑張れ塩竈や商工会議所の皆様は精力的な活動をされております。藻塩をきっかけに製塩の歴史を振り返ってみましたが、まだまだ、科学的実証がなされず推測の域を出ていない事柄も多くあります。だからこそ、妄想を巡らす楽しみがあるのですけどね。
この塩竃汁を全国に広めるとともに薀蓄を添えるために、2500年の製塩の歴史がある塩竈の藻塩を使うことをスタンダードとしてもらいたいものです。やはりモノトーンが粋な塩竈汁ですが、この季節なら生海苔を浮かべるのもありでしょう。