いま私は磐越自動車道を西に向かって走っています。前方右手には会津磐梯山が見えてきました。フェンスで見えませんが、左手には猪苗代湖が広がってくるはずです。猪苗代湖の水は日橋川、阿賀川、そして阿賀野川を通じて日本海に注ぎます。私も流れに沿って越後に入ります。目指すは越後妻有(つまり)、つまり中越地域の十日町市と津南町からなるエリアです。^^
越後妻有の里山では、知る人ぞ知る大地の芸術祭が3年に一度開催されています。食い物以外に芸術にも関心があるのか驚かれたことでしょう。実は今年の7・8月には夏休みが取れず、細君をどこへも連れて行っていなかったので、どこへ行きたいと尋ねたところ、「越後妻有アートトリエンナーレに行きたい。」となった次第です。美術講師の細君がいなけりゃ、まず行くことはなかったでしょう。^^
大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2012の公式ガイドブックとパスポート。パスポートは前売り施設入場券のようなもの。各種特典もあります。
この芸術祭は過疎化が進む中山間地において、アートによる新しい地域づくりを目指し、2000年から活動を始めています。トリエンナーレはイタリア語で3年に一度という意味です。今年で5回目の芸術祭は7月29日から9月17日の51日間開催されており、その終盤ギリギリに飛び込みました。
その道中、私はどうしても寄りたいところがあります。以前より長岡藩の家老河井継之助の墓前参拝をしたかったのです。
東京で義母介護帰京中の細君とは現地十日町で合流することになっており、長岡では一人で自由に行動できます。磐越、北陸、関越と自動車道を乗り継ぎ、長岡ICで一旦降ります。
河井継之助は幕末の長岡(牧野)藩の武家に生まれますが、本来、家老職になれる身分ではありませんでした。子供の頃から一種の変人で、素直に物事を習うことは決してなく、師範を困らせます。江戸へ遊学しても単なる詩文、洋学などの勉学は学ばず、物事の原理や世界の動向を探ろうと努めます。
長岡藩に戻った継之助は富藩強兵や財政改革などに乗り出します。非凡過ぎるがために周囲の理解を得らず、辞任や降格を繰り返しますが、その度に重要な地位に着いていきます。世の急激な流れに古い考えの武士では対処できず、どうしても継之助が必要となるのです。薩摩の吉之助(西郷隆盛)もそうでしたね。継之助は郡奉行から町奉行、さらには筆頭家老にまで上り詰めます。
世は鳥羽・伏見の戦いに勝利した薩長が官軍となり、全国制覇の行軍が越後にも迫ってきます。長岡藩主牧野家は元を質せば東三河の出身で徳川家にも仕えた家柄、瓦解が近いと知りつつも幕府を裏切ることが出来ず、奥羽越列藩同盟に参加して壮絶な北越戦争へと突入します。長岡藩でも勤皇派の家老が何人か逃亡しましたが、継之助は歴史的な汚名より武士の美学を選んだのでしょう。
河井継之助を知ったのは学生時代に司馬遼太郎の歴史小説「峠」に巡り合ったからです。彼の信念を貫いた半生に敬服して、学生時代だけでも4・5回は読み返しています。鬼のような人物にも見えますが、江戸では遊郭通いも盛んで仕送りの学費を使い果たしています。食べ物に関するエピソードも残されており、そこにも惹かれたものでした。
長岡は大きな町ですが、駅から数分も歩くと住宅地に入ります。雪国らしく道路には融雪用の地下水噴射設備がありますが、鉄分が多いため路面が真っ赤です。
鉄分の多すぎる地下水は飲料に適しませんが、継之助の家の井戸は良質な水が湧いたとのこと。
かつての河井継之助生家跡地に記念館があります。
複製ですが、当時の最強兵器であったガトリング砲も展示されています。ガトリング砲は日本に3門しかなく、そのうち2門を継之助が買ったとされています。福沢諭吉に勝るとも劣らない開明論者でありながら、越後の小藩に生まれた境遇を彼は嘆いてはおりません。彼の名言に「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。」というのがあります。
記念館から車で5分のところに継之助の墓がある栄凉寺があり、そちらに向かいました。継之助は北越戦争のさなか、銃弾を足に受け会津へ敗走の途上、42歳の若さで生涯を終えます。
栄凉寺は長岡藩主牧野家の菩提寺でもあります。大きな駐車場も出来ており、親切に近道の看板もあります。
河井家の墓は墓地の奥の方にありました。継之助の時代の墓石は文字も読み辛いほど傷んでいます。
当時の長岡人にとって継之助は郷土を焼け野原にした戦犯であり、墓石を叩いたり、蹴り倒したりしたそうです。勝てば官軍と言われますが、継之助がガトリング砲を駆使して、長岡藩を永世中立国にすることに成功していたら、今の世はどうなっていたでしょう。でも、それはないでしょうね。圧倒的な軍事力の差は継之助もよくわかっていたはずで、個人としての志は確固たるものがありますが、政治家としては未熟だったのかも知れません。ともあれ、焼香をして参拝を済ませました。
ところで、継之助の好物は桜飯だったと伝えられています。それを食べに駅近くの割烹七福さんに向かいます。
想像以上に格式の高いお店のようです。桜飯って、大根の味噌漬けを刻んでご飯を炊いた糧飯(かてめし)の一種なのに、このようなお店で食べるミスマッチに苦笑い。
電話で予約は入れましたが、たった一人なのにこのような個室を用意してくれました。
もしかするとお座敷割烹といいますので、全てが個室なのかも知れません。長岡の政治家や財界人がここで密談をするのでしょうか。^^
これが桜飯に料理が付いた河井継之助御膳1600円です。いや、料理に桜飯も付いたと言うべきか。。。
継之助は「桜飯ほどうまいものはない。」と絶賛していますが、これを見たら怒り出すのではないかと少し怖くなります。継之助は遊郭遊びも好きですが、日頃は質素で江戸の住込みの塾ではご飯に沢庵だけの食事だったとされていますので。
向付は中トロと高級魚のアラでした。手前の焼き物はサクラマスで厚焼きとクリームチーズ豆腐のような添え物。
アラは始めて頂きましたが、食感も肉質も白身の刺身としては比類なき美味さでした。
奥は梨茄子とかぐらなんばんの天ぷらを笹川流れの海水塩で。手前はズイキの甘酢漬けです。
どちらも新潟らしい郷土の料理。新潟県はナスの生産、消費とも日本一と言われます。ナスの品種が実に多い。今回の旅でも参考になる茄子料理を発見できました。ズイキを甘酢に漬ける食文化も魅力的。ズイキ専用の調味梅酢も市販されていました。
そして今回よく食べた糸ウリの浸し物。
果肉が繊維状にほぐれる不思議な瓜です。正確に言いますとヘポカボチャの一種なるらしい。シャリシャリした歯触りが涼しさを誘います。
さて、これが本命の桜飯。味噌漬け飯のことなのですが、最近はこのように炊いたご飯にあとから微塵切りの味噌漬けを混ぜるらしい。
お店の方曰く、炊き込むとご飯にも色が移ってしまうから。。。伝統は改良しながら伝えるものとはいえ、長岡藩主牧野家の先祖が住んでいた東三河では醤油で色付けて炊いたご飯のことを桜飯ということから、ご飯が染まっているのが本筋。これは自分で作って検証する必要がありそうです。
お店のお薦めでとろろもかけて見ました。
とろろご飯に漬物の細々が入っているのはバリエとして面白いと思いますが、桜飯からはまた遠退いたような気がします。
この御膳には甘味とコーヒーが付きました。コーヒーはランチタイムだけだったかも知れません。
河井家の家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ)。甘味は饅頭とのことなので、細君用に頂いてお店を出ました。後にこの饅頭には芋餡が入っていて大変美味しいことが判明しました。^^
さて、十日町に向かう前に炊き込み式の桜飯を作るため、駅ビルの物産コーナーに向かいます。
駅ビルCoCoLoは上越新幹線の主要な駅にあり、お土産や食事処、雑貨やファッションまで幅広いテナントが入っています。駅前の丸い玉は長岡花火の二尺玉の模型でしょう。
予想通り、味噌屋さんも入っていて味噌漬けも扱っていました。我ながら嗅覚は鋭い。^^
各種の味噌漬けがありますが、中央のトレーの左上が大根。これ一本で千円以上しますので、わがまま言って半分にして頂きました。帰ったら、これで継之助が食べていた桜飯を体験します。
これは後日、自宅で炊いた桜飯。確かにご飯はうっすらと染まりますが、綺麗じゃないですか。これこそが正真正銘の桜飯です。
米2合に大根の味噌漬け4cmほどを刻んで炊き込みましたが、味も丁度良い。ただ、混ぜ込み式と違うのは大根の食感。カリカリ感がなくなり、煮染めた干瓢が入っている感じです。味噌漬けの存在感は薄れますが、味はよく全体に馴染んでいますね。継之助もこの味を絶賛したのでしょう。経営的に考えれば、継之助ファンの観光客しか注文しないであろう桜飯を常時炊いておくのは不経済ですね。白飯でササッと作れる桜飯の方が無駄がありません。でも、絶対、炊き込んだ方が美味いなぁ。
さて、念願の墓参りも完了し、桜飯でお腹も満たしました。これから、いよいよ、越後妻有アートトリエンナーレ2012の本拠地十日町に向かいます。大地の芸術祭はとても2・3日で見切れる規模ではないのですが、出来る限り頑張ってみましょう。ただ、この暑さ。みちのくでは体験できないような厳しい太陽光が降り注いでいます。熱中症だけにはならないよう、水分塩分の補給に注意して参りましょう。!!