函館の旅も今日でお終い、午前中には出発して気仙沼へと帰ります。その前に朝の函館を散歩します。どんよりとして寒々とした天気ですが、函館山も見納めです。函館山は元々、島で漂着した砂により砂州でつながったのでしょう。イザベラ・バードも明治11年にこの地を訪れていますが、海辺は貧しい漁村で、西洋人の住む住宅は坂の上にあったとしていますので、函館山の麓に洋館や教会が建てられていたのでしょう。神戸や横浜でも西洋人は好んで高台や山麓に家を建てていました。坂道の不便さより眺めを重視したのでしょう。それとも、津波の恐怖を知っていたのでしょうか。
ここ函館でも今回の東日本大震災による津波が押し寄せており、一部が海水に浸ったそうです。津波は震源に近い砂州の東側ではなく、西側(函館山から見下ろした時の左側)のベイエリアを襲っています。今まで紹介してきました金森赤レンガ倉庫群や函館朝市が冠水しました。こちら側の地盤が低いためでしょうか。
この船はかつての青函航路に就航していたJRの連絡船、摩周丸です。
2代目の摩周丸が現在、博物館船となって係留しています。現役時代は鉄道の貨車を一度に48両も積んだそうです。
さて、帰りもまた トノサマバッタのような789系スーパー白鳥に乗り込みます。
函館と新青森を2時間ちょいで一日8往復しています。
青函トンネルに入り、景色も見えなくなりましたので、お昼ご飯にいたします。
函館夜景物語という海鮮五目ちらし寿しです。五稜郭の食事処四季海鮮旬花さんの商品です。値段は失念してしまいましたが、1000円以下だったと思います。謳い文句は、百万ドルの夜景と呼ばれる函館の夜景を金箔と海鮮で表現。。。だそうです。
うわぁ、これは美しい。本当に金箔が散りばめられています。彦摩呂っぽいですが、夜景というより万華鏡ではないでしょうか。^^
赤系統のカニ足、エビ、イクラ、酢蓮、黄色の錦糸卵と賽の目の厚焼き、白いイカが全体を三つに仕切り、金箔が豪華絢爛さを醸し出します。これは眺めているだけでも楽しめますね。食べ始めると様々な味が次から次へと口の中に現れて実に華やかでした。こんな煌びやかな弁当を海面下240mで食べているのもまた、不思議な感覚です。
続きまして、これらは函館で買ってきたお土産です。
甘いものは細君も控え気味なので職場用。一番下にある黒い恋人、完全に石屋製菓さんの白い恋人のパロディーですね。そう言えば、吉本興業が販売していた面白い恋人というお菓子(ゴーフレット)については商標権の侵害として訴訟を起こしてましたよね。面白い恋人だってパロディーじゃないでしょうか。そもそも、白い恋人だってフランスのグルノーブルで行われた第10回冬季オリンピックの記録映画白い恋人たちから頂いたのでしょ。大阪人のパロディーに目くじら立てていたら、中国や韓国に行けませんよ。^^
私が気に入ったのは、イカ徳利とイカにチーズを詰めた珍味。
イカ徳利は古くからありますが、これでお酒を呑むのは初めてかも。函館を思い出しながら味わいましょう。
イカ徳利には高めの熱燗を入れて、イカの旨味を十分に酒に移します。
ちょっと、ぷ~んとスルメの香りが立ち昇りますが、出汁の利いた熱燗は格別ですね。ふやけた徳利とお猪口はさっと炙って頂きました。
これはチーズいかという商品です。ベタなネーミングですが、なかなかどうして、今までにない味わいです。
のしイカとチーズフードを組み合わせた珍味はよくありますが、小型のスルメイカをしっとりとさせたままチーズを鋳込んだものは初めて見ました。チーズフードも美味いと思ったら、カマンベールチーズも加えていました。カップ酒の友の珍味というより、オードブルにも使えそうな品格もあります。
駆け足のように過ぎ去った函館での3日間、仕事の合間でしたが、様々な味覚を体験できました。今回で函館は3回目となりますが、今までは旅の途中に立ち寄っただけで1日以内のステイでした。イザベラ・バードが立ち寄った明治11年、函館も西洋人がかなり滞在しており、宣教の他に農業や土木の技術指導でも多数の外国人が招へいされています。従って北海道も少しずつ西洋化が始まっていた時代ですが、でもそれは函館や札幌周辺でのことだったようです。室蘭を経て、白老、苫小牧と進むにつれて、寒村とアイヌの集落が混在し、鵜川を渡り、平取に到達しますとアイヌ民族の世界が残されていました。
しばらくアイヌの集落に滞在して親しくなった彼女にアイヌが新政府には内緒でと、彼らの大切な場所に案内します。それは、なんと源義経を祀った神社だったのです。義経がアイヌに優しかったという理由で大切にしているとのこと。彼女に詳しい説明はなかったようですが、実はこの神社を建てたのは寛政10(1798)年、幕府の命を受け蝦夷地の探検にやって来た近藤重蔵という侍だそうです。衣川で敗れた義経は実は死んではおらず、蝦夷地から大陸に渡って成吉思汗(ジンギス・カン)になったという伝説(現在では否定的)もありますが、義経神社の建立は幕府の蝦夷地進出に当たってのアイヌ民族懐柔策の一つであったとされています。