十三浜は志津川湾と追波湾に挟まれた一帯で、旧北上町の沿岸部です。現在は合併して石巻市に組み込まれました。恵まれた岩礁と北上川から運ばれる栄養で海藻類が良く繁茂し、それを餌にするアワビやウニも豊富です。ワカメ養殖も盛んで質の良い製品ができるので有名なのです。この十三浜、震災以来一度も足を入れていませんでした。隣の志津川や雄勝はよくテレビで放映されるのに、人口の少ない十三浜の漁村はあまり取り上げてもらえなかったように記憶しています。土曜日の昼前に気仙沼を出発し、自宅に帰る途中で志津川から十三浜を回って見ることにしました。
志津川湾の南岸、戸倉の各浜を過ぎると神割崎のキャンプ場が見えてきます。昼時なのでちょっと休憩していきましょう。木々の合間から見える海の綺麗なこと。
三陸海岸の魅力は、この水の透明度なんですよね。学生の頃、遊びに来て、沖縄以外にもこんな綺麗な海があるのかと感激したものです。
あれ、それにしても人影がありませんね。夏休み真っ盛りの土曜日だというのに被災地だから敬遠されているのでしょうか。
誰もいないキャンプ場ほど寂しいものはありません。一体どうしたと言うのでしょう。陸前高田の薪ですら怖がられるのですから、それより、福島第一原発に近い宮城は諸に汚染地域として見られているのでしょか。このところ稲わらや牛肉の汚染が問題となっているだけに観光地としての魅力も失せたのでしょうか。
お盆休みを利用してボランティアにやってくる方々もいれば、魂を慰め、国の安寧を願うべき五山の送り火を被災者の心を踏みにじるただの焚き火にしてしまった人たちもいます。原発事故は離れれば離れるほど恐怖感が増幅するように思えます。西日本から見ればみちのく全体が放射能汚染されているように見えるのでしょう。
すると、トイレにこんな貼り紙が。なんと、まだ、水道が復旧していないのです。
震災から5ヶ月以上が経過してもこの周辺は水道が使えないのです。これではキャンプ場もオープンできませんね。考え過ぎだったかも。^^
さて、お昼になりました。車の外気温計を見ますと、げっ、36℃を示しているではありませんか。壊れたんだろうか。この気温、日本では生まれて初めての体験かも。
そんなに暑かったのか。たしかに長い時間外にいますとクラクラしてきます。29℃設定の冷房がビリッと涼しく感じますからね。木陰に車を止めて、今日は車中食、とても外では食べられません。
さて、お昼なんですが、十三浜では売店もやっていないだろうと予測して志津川で買っておきました。
以前の記事で紹介したセブンイレブン天王前店が移動販売車からプレハブの店舗になっていたのです。商品も種類もぐっと増えて利用しやすくなりました。
今日のお昼は冷やしとろろそばです。これで390円、まだ、しっかり冷えています。
パックのトロロの他にキュウリの千切りや刻み葱に海苔まで付いています。茹で立てではないけれど、このような過酷な環境でも冷たい蕎麦が食べられるのは贅沢なことですね。
涼味を楽しんでまた、走り出します。小指(こざし)の手前から旧道に入りますと、倉庫や加工場の残骸だけになった漁村が目に飛び込んできます。
この細い谷状の集落はかなり上の方までやられていました。津波がかなりの高さまで駆け上ったようです。三陸沿岸ではこういう光景をよく見ます。
相川の手前で道路の法面が崩れている箇所があり、車を降りて海を覗き込むと真っ茶色です。
崩れた所から今でも土砂が流れ込んでいるようです。これでは岩の表面が汚れて海藻の繁殖に影響が出てしまうでしょうね。
相川に着いて呆然、家も漁協も郵便局も何もかもなくなっていました。
こういう光景は見慣れていたはずなのですが、思い出のある所が激変しているとそう簡単に受け入れることができないのです。
驚いたのはこちら。青いパワーシャベルの辺りから対岸の中腹に陸橋が架かっていたのですが、跡形もありません。
歌津の海岸にもこのような陸橋がありましたが、ことごとくひっくり返されました。阪神淡路大震災の阪神高速のように地震で倒れたのではなく、津波で大破したのです。とてつもないパワーです。間近で見ていると背筋が寒くなってきます。
さらに南下します。どのトンネルも電灯が消えて真っ暗です。まだ、電気も復旧していないようです。
夜はかなり怖いでしょうね。電灯のないトンネルは昔、山間部でよく見ましたが、不気味なものです。見ようによっては天井に不思議な模様が。
ここは北上川河口に近い白浜海水浴場の背後地です。残った家は僅かですが、その家もダメージが大きそうです。
小さな浜ですが、あまり込まないのでお気に入りでした。夏以外は投げ釣りの好ポイントでもありました。おそらく瓦礫が流れ込んで釣りにならないでしょう。
北上川の河口域に入りました。正面は2005年の石巻市との合併翌年に建てられた木造建築の石巻市北上総合支所です。
公民館も併設する複合施設であり、津波の際の指定避難所でもありました。来る宮城県沖地震に想定される津波を考慮して海面より6.5m高く設計されたのですが、不幸にも50名とも70名とも言われる非難された方々のほとんどがなくなっています。想定外のこととはいえ、ここ以外にも指定された避難所を信じて、そこで動かずに亡くなれた方々があまりにも多過ぎます。
北上総合支所から北上川沿いに土手道を遡りましたが、釜屋大橋の1Kmほど手前で通行止めとなり迂回路に入ります。ここで十三浜巡りは終わりとなります。
はっきり見えませんが、対岸の山の左端辺りが、津波で児童の7割に当たる74人が死亡並びに行方不明となった大川小学校です。
震災後初めて訪れた十三浜でしたが、今まだに水道や電気が完全に復旧していないようです。と言いますか、ライフラインを復旧させるべき集落や町がなくなっています。今後、この地域の復興をどうすべきなのか考えさせられます。それでも、壊れた漁港には津波を逃れた漁船が何隻も泊めてありましたので、じわりじわりと漁が再生するのでしょう。また、いつか同じような津波がやってくるのかも知れませんが、今回の教訓を活かして、人の犠牲が最小限になるような仕組みを作るべきです。ほとんどの神社仏閣が助かっているように。