fc2ブログ

復旧の日まで(3) 【マストな基本装備=水光熱】

カテゴリー: 3.11震災関連

 と言われるように、人間の生活に必要な三原則は明かり加熱手段です。もちろん衣食住あっての話ですが、すべてが止まったライフラインの中でそれらをどう確保したか。実体験に沿ってご報告いたします。

 


 まずですが、幸い自宅付近には震災後すぐに自衛隊や市の給水車が毎日やってきました。物置には非常用に何本かのミネラルウォーター(2L)が備蓄してありますが、とても足りません。
jisin3-0.jpg

 ただ、別居中で日中、働かないといけないのでなかなか支給を受けに行けません。お隣にお願いしたり、休息日にまとめて支給を受けたりしました。そのため、ペール缶バケツのような貯水タンクが必要になりました。給水所にあまり大きなタンクを持って行っても支給される量は一定ですし、回りの目も気になります。キャンプに使っていた蛇腹式のビニールタンクは軽くてかさばらず便利です。たたんでリックに入れ、買出しの途中で給水を見つけたらさっと並べます。

 
 実は我が家の近くに、こんこんと湧き出る井戸があり、地主さんが夜でも開放していてくれたのですが、後先を顧みないラジオでの放送により、直後に車が殺到し、交通にも支障が出て供給停止になりました。善意と湧き出る水が無駄になってしまいました。

 なお、井戸の水や飲料水でも長い間溜め置いた水は雑菌が繁殖している危険性もありますので、過熱してから利用することをお薦めします。

 




 貴重な飲料水を水洗トイレに使うのは惜しいですね。幸い、我が家にはがあったので、この水を利用しました。
jisin3-1.jpg

 一人暮らしだったので、一日一回バケツ一つ分を流せばことが足りました。今回、しみじみと感じたのですが、水洗トイレは排水するのに10リットル位の水の圧力が必要で、日頃、実に多くの水を使っていたのですね。これは改良が必要でしょう。それと寒い日には池にが張ります。これは大切な資源で冷凍庫にせっせと運びました。




 は池だけではありません。
jisin3-2.jpg

 家の周囲にある4カ所の雨水溜桝も利用できました。普段、植木にもこの水をやっており、柄杓も備え付けてあります。飲み水ではありませんので、放射性ヨウ素やセシウムが入っていてもどうってことないでしょう。




 続いて明かりですが、電気が来るまでは卓上の照明は蝋燭(ローソク)が主役となりました。蝋燭は10cm40本入り1箱を備蓄していました。
jisin3-3.jpg

 割れてしまった愛用のマグカップがちょうど良い蝋燭立てになりました。これは生涯のメモリアルになるでしょうね。




 一応、災害や停電に備えていくつかの照明器具は用意してありました。
jisin3-4.jpg

 最も普及している右の防水ライト(赤)は、電源である単一電池があっという間に売り切れました。一方、左のラジオ付きライトは、電源が単二電池だったので比較的手に入りやすく、震災後でも十分な個数を確保できました。今回、見直したのは真ん中の手動発電式ラジオ付きライトです。釣りのリールのようにハンドルを回すと数分は発光ダイオードが点灯し続けます。貴重な電池を消耗させないために、夜の家中の移動にはもっぱらこれ使っていました。




 最後はですが、調理用のコンロバーナーは前記事で説明したとおりです。
jisin3-5.jpg 
jisin3-6.jpg
 
既に前記事に書いてますが、広く普及している卓上ガスコンロカートリッジボンベは震災後すぐに売り切れてしまいました。常時、6本ほどの備蓄が必要です。キャンプ用のバーナー類は火力も強く調理しやすいのですが、同じく震災後にはカートリッジは手に入りません。

 

 
 以上の装備と水や食料があれば、完全にライフラインが止まっても一カ月は何とかなるでしょう。通常の場合、この間に電気や水道が復旧するはずです。




 庭にフキノトウが顔を出していました。
jisin3-7.jpg
 
震災がなければ、毎年、この時期にフキノトウを摘みに河原に行っていました。天ぷらやフキノトウ味噌は、今年はお預けとなります。




 それでも春の香りを楽しみたくて、雑煮に入れてみました。
jisin3-8.jpg
 
鮮烈な香りが鼻腔を通り抜けます。曜日も日にちも忘れかけていますが、春は確実にやって来たのですね。

 

 

 学生時代は山岳もやっていたし、家族とも何度となくキャンプにも出掛けていましたので、このような生活は慣れっこなはずですが、いつ終わるともわからない状況ですと、少々、ブルーになります。地震から1週間、追われるように食べている冷凍庫の解けた食材。少しでも飽きないように、あの手この手で料理して気を紛らしています。電気が来れば、気持ちも楽になるのでしょうが、開通予定日をとっくに過ぎています。
 

スポンサーサイト



2011/03/28(月) 05:00 | trackback(0) | comment(8)

復旧の日まで(2) 【生活の立て直し】

カテゴリー: 3.11震災関連

jisin2-1.jpg
 東京から真っ暗な我が家に戻った翌日、眩しい朝日の中で見た光景はあまりにも衝撃的でした。壁に据え付けられた食器棚は比較的被害がなかったのですが、独立した食器棚は天井との間に突っ張り棒もしてあったのですが、見事に中身を吐き出してくれていました。倒れていたわけではないので、両者の被害の差は地震の揺れの方向と関係あるのかも知れません。ともあれ、キッチンは今日から生活の要ですので震災後の初出勤の日ですが、朝5時に起きてせっせと片付けです。




 キッチンの割れ物処分が終わって二階に上がると、もう目眩がしそうな光景でした。
jisin2-2.jpg

 本棚という本棚が完全に倒れて、踏み場もないくらいの本の山。これには力が抜けてしまいました。まずは生きていくことが先、本は腐らないので当面このまま放置して生活が復旧してきたら少しずつ片付けていきましょう。




 生きていくために真っ先に用意しなくてはならないのは食事を作る道具です。
jisin2-3.jpg

 以前より、いざという時は卓上ガスコンロが加熱調理の主役になるだろうと思っておりました。ところが、いくらスイッチを押しても点火しないのです。地震の激しい揺れで壊れてしまったようです。これは、マジでやばいです。




 実はずいぶん後になってから、わかったのですが振動でカートリッジボンベの下を押さえるが広がっていたのでした。
jisin2-4.jpg

 この爪をぐっと押して元に戻すとガスが噴射され普通に稼働しました。家に戻ってすぐで気が動転していて冷静な判断が出来なかったようです。結局、このガスコンロは出番がありませんでしたが、このタイプは広く普及しているだけに、カートリッジボンベは震災後にすぐに売り切れてしまい、東京でも山形でも手に入れることが出来ませんでした。当座しのぎとしても、最低6本の備蓄は必要でしょう。

 



 これに代わって役立ったのが、かつて使っていたキャンプ用のガスバーナー類です。物置の奥から引きずり出しました。
jisin2-5.jpg

 子供が小学生の頃は春から秋までオートキャンプでみちのく中を走り回ってました。これらも10年ぶりくらいの登板です。いつか災害の時に役立つかもしれないからと、とっておきましたが、本当になってしまいました。シングルもツインバーナーも健在で、幸い、どのボンベにもガスが半分ほど残っていました。大切に使えば、朝夕10日は持つでしょう。




 お湯を沸かすとガスの消費が大きいので、炒め蒸し料理が多くなります。
jisin2-6.jpg

 食料
冷蔵室内に野菜が少々、冷凍室にはぎっしり冷凍食品がありました。電気が止まって4日になりますが、幸い、この季節ですので、全く痛んでいませんでした。それに冷凍室にはまだ凍ったままの食品もかなりあります。まずはこれらで食い繋ぐことです。

 冷蔵室食品のうち長持ちしそうなものは冷凍室に移し、冷凍室内でも解け切ってしまったものから食べていきます。さらに、最後の方では、池の氷を取ってきて冷凍室に入れて解凍を遅らせました。ガスの消費を抑えるために、さっと炒めてから、水を少々加えて蓋をして蒸します。フライパンにピタッと決まるアルミ蓋があると普段も便利です。



 
 同じ調理法だけですとやはり飽きますので、たまには麺類も。
jisin2-7.jpg

 最少限の水でマルタイラーメンを作ります。このストレートの乾麺は場所も取らず、壊れにくいので備蓄しておくのに重宝です。冷凍インゲンも完全に解凍されてから数日経ちますが、冷凍室内にはまだ解けていない肉や魚が入ってますので、傷んでおりません。





 ライフラインは完全に止まったままですが、配給されるガスバーナー、それに冷凍室内の日に日に解けていく食品保存食でしばらくやって行けそうです。近くのスーパーや生協には朝から長い行列ができ、その日の販売分がなくなれば、お終いです。とても仕事をしながらの買出しは単身では不可能です。夕方からも販売してくれればありがたいのですが、まだ電気も来ていない状態では難しいのでしょう。でも、そんな贅沢言ってられません。避難所生活の皆様のことを思えば、自宅で寝られるだけで幸せなのですから。


2011/03/25(金) 23:30 | trackback(0) | comment(4)

復旧の日まで(1) 【宮城に帰ろう】

カテゴリー: 3.11震災関連

jisin1-1.jpg
 その日、私は東京の霞が関にあるビルの8階で午後2時からの会議に出席していました。議事が順調に進められているさ中にその揺れを感じ始めました。二日前にも仙台で大きな地震をくらっていましたので、何のこれしきすぐに治まるだろうと高を括っていました。ところが、揺れは治まるどころかシェイクするように激しくなり、古いビルの壁にはバリバリとヒビが入り始めました。机にしがみついているのがやっとで下にもぐる余裕など全くありません。このビルが崩れてしまうのではないかという恐怖感が襲ってきます。



 いったい、どれくらい揺れが続いたのでしょうか。2分くらいはあったように感じました。いつか来る関東大震災の日に東京出張なんて私は何と不運な男なんだと思っていたところ、誰かのワンセグ情報によると震源は宮城県沖!!。東京でこんなに揺れたら、震源の宮城はどうなってしまうのだとややパニックになっていますと、それに追い打ちをかけるように10mの津波が押し寄せるとの情報も入ってきました。



 しばらく、書類が散乱した部屋でテレビにかじりついていましたが、強い余震が続くのでビルの外へ退去。その時の写真が上のものです。霞が関は大混乱、ビルから飛び出してきた人々で歩道は埋まっていました。




 
 とりあえず、余震に備えて安全な日比谷公園に足を向けました。
jisin1-2.jpg

 普段通りでしたら、沈丁花の芳香が漂う春ののどかな日比谷公園ですが、今宵の宿になるのかも知れない等と考えながら東京駅に向かいます。





 だが、待てよ。これだけ強い地震なら交通機関にも影響が出ているはずだ。テレビが見れるところで情報を収集しようと立ち寄ったのが帝国ホテルさんでした。
jisin1-3.jpg

 カフェラウンジで一息入れてと思ったのですが、テレビはありませんでした。ところがその後の対応が素晴らしい。テレビを見せて下さいとお願いしますと、ホテルの各所に大型液晶テレビが配置され、情報提供をしてくれたのです。すぐにそれらの周辺は人だかりとなり、何時間も固まったままでした。


 

 ヘリコプターによる閖上方面の津波の生々しい映像が流され、周囲からはうめき声も聞こえてきます。いったい、宮城はどうなっちゃうんだ。自分はここで何をしているんだという気持ちが込み上げました。その後、都内の交通はおろか、東北新幹線も復旧見込みが立たず、夜を迎えます。しかし、帝国ホテルさんは我ら難民を丁重に扱いや缶入りパンの支給もして下さいました。通勤難民も含め一時1000人はいたのではないでしょうか。





 帝国ホテルさんの廊下で一夜を過ごした朝、再び水やパンに温かいスープまで支給して下さいました。
jisin1-4.jpg 
jisin1-5.jpg

 この缶入りパンが想定外に美味しかったのです。乾パンではなく、焼いたパンが缶に詰められています。しっとりとしていて、甘みがあり非常食とは思えません。ただ、開ける時にポンと大きな音がするのでみんな寝静まった夜中に開けると顰蹙を買います。スープも一流ホテルのシェフが作ったものですから最高でした。




 帝国ホテルさん、本当にありがとうございました。




 翌日も東北新幹線の復旧見込みが立たず、都内の交通が怪しいので、新橋のビジネスホテルを確保しました。さらに翌日、ネットで宮城への帰路を探索し、動いている上越新幹線で新潟に行き、そこから羽越本線で山形県の鶴岡に行き、さらに、バスを乗り継いて仙台に入るのが可能であることを知りました。ただ、途中でダイヤの乱れがあることも想定し、翌朝に決行することにしました。

 

 果たして、この計画は吉と出るか、凶とでるか・・・
jisin1-6.jpg

 もし、陸羽本線や山形県内のバスの運行が途中で止まったら、車中泊かネット環境のない宿での待機になるかも知れません。これは賭けです。


 
 明朝の宮城に帰ろう計画実行を前に子供たちが下宿する練馬区に向かい、両親の介護のために上京していた妻とも合流し、想定外の一家の全員集合となりました。次男(愛犬15歳)もボケが進んでましたが、元気でした。その後、子供に大きなバッグを借りて、保存食や蝋燭などのサバイバルグッズを買い集めました。ライフラインが止まった宮城で必需な卓上ガスコロンのカートリッジガスも探しまくりましたが見当たりませんでした。途中の山形でも可能な限り探したのですが、売切れでした。震災を受けていない地域でもすでに食品やサバイバルグッズの買い溜めが始まっていたのでした。



 
 なんとか14時間かけて3月14日の夜に自宅に戻りましたが、周囲は真っ暗。それでも、自宅の外観は異常がなかったのでほっとしたのも束の間、中に入るとそこはまるで瓦礫の山。片付けは明日以降にしてとりあえず空いたスペースで寝ることに。



 
 愛用していたマグカップも壊れ、これを蝋燭立てとして明かりを確保しました。
jisin1-8.jpg

 戻ったの日の夜は、缶詰のイワシとお茶で夕飯として、早々に眠りにつきます。




 暗闇の中で見た我が家の有り様は想定以上に凄まじい。明日の朝が思いやられますが、地震発生から三日目。心身共に疲れ果てていましたので散乱した家財の中でもすぐに眠りにつきました。明日からのサバイバル生活も考える間もなく・・・。



2011/03/24(木) 06:00 | trackback(0) | comment(4)

源吾茶屋の茶屋セット(西公園@仙台)

カテゴリー: 外食:ラーメン

gengo1.jpg
 ここは西公園。暖かい日にはベンチに座って読書も良いですね。ビル街の外れにこのようなオアシスがあるのはありがたいことです。この西公園、元は桜ヶ岡公園と呼ばれていたのですが、榴岡(つつじがおか)公園に対して西公園と呼ばれるようになったとか。子供の頃の夏休み、川遊びしない時は今はなくなった市民プールかここ西公園で遊んでいました。東西の公園ともの名所として知られていますね。




 公園の南、これまた移転してなくなった天文台の近くに桜岡大神宮があります。
gengo3.jpg

 政宗公が伊勢神宮より勧請したとされ、藩内を何回か遷座した後、明治維新後にこの西公園に落ち着いたそうです。




 この桜岡大神宮のすぐ隣には江戸時代から創業を続ける源吾茶屋さんがあります。
gengo4.jpg
gengo5.jpg

 子供の頃からここで食べるのが夢でした。祖父の家がすぐそばなので、ここで食事させてもらえませんでした。^^ 麺類なんか食べている人を横目で見ながら帰るのでした。その割に大橋茶屋さんのがんづきや茶飯握りはよく買いに行かされましたっけ。




 
 遅めの昼時なので窓際の陽射しの当たる席に座れました。
gengo6.jpg

 現代の茶店は音楽が流れ、コーヒーが似合いそうな佇まいです。ゆっくり時間が流れます。



  さて、休日のブランチは何にしましょうか。一番人気は茶屋セットとか。
gengo7.jpggengo8.jpg

 ラーメンにお餅が付くそうです。




 こちらが茶屋セット880円。
gengo9.jpg

 ちょっと高いかなという気もしますが、突き立てのお餅にサラダも付いてますからまずまずでしょう。




 源吾茶屋さんの名物はラーメンではなく、ごまもちなんですね。
gengo11.jpg

 ごま餡のお餅なんてどこでも発生しそうですが、元祖と銘打ってあります。製法がなにか違うのでしょうか。




 奥がごまもちです。なるほど、ごま餡が実にファインでトロリとしています。お餅もシルクのようにきめ細やかで柔らか。
gengo10.jpg

 甘い物が得意じゃない私も不思議と胡麻やナッツと組み合わさると食べられます。ただ、小豆餡は子供の頃、正月に汁粉を食べないと雑煮を食べさせてもらえず、あんこがトラウマになってます。^^  なんとか半分の粒餡をお茶で流し込み、あとは申し訳ありませんが餅だけ頂きました。





 フレッシュサラダは胡麻ドレッシングが既に掛かってきます。
gengo14.jpg

 お餅を食べた後の甘ったるくなった口をサラダがスッキリと直してくれます。




 さて、ラーメンですが、ごくシンプルなお蕎麦屋さんの中華そばといった感じです。
gengo12.jpg

 小さな煮豚とメンマが数本。それぞれの味付けも上品です。スープは鶏ガラを感じます。




 麺は色白のストレート。一見、柔らかそうに見えますが、結構、コシがあります。
gengo13.jpg

 志のぶさんの系統かな。飲み過ぎた翌日にも頂ける優しいラーメンですね。




 西公園の西側は広瀬川ですが、公園の地下をくぐる建設中の地下鉄東西線がここで地上に現れ、川を渡るのですね。
gengo15.jpg

 西公園駅の次は対岸の国際センター駅となる計画です。私は仙石線がそのまま延長するのかと思ってましたが、JRと市営ですからコラボレないのでしょうか。地下の仙台駅付近が複雑になりますね。





 子供の頃の夏休みは琵琶首丁で過ごしましたので、この界隈は私のテリトリーでした。念願の源吾茶屋さんで食事が出来たのは実は最近になってからでした。この茶屋セットなんて、子供の頃だったら舞い上がるようなご馳走でしたでしょうね。ラーメンですら、たまに父親に連れられて床屋の帰りに食べたくらいでしたから。それに比べて現在は飽食気味で素朴な美味さを忘れつつあるようで不安になります。




源吾茶屋

・所在地 :仙台市青葉区桜ヶ丘公園1-1 
・電 話 :022-222-2830
・営業時間:11:00~18:00
・定休日 :不定休
・駐車場 :あり(店前の広場)

2011/03/11(金) 05:00 | trackback(0) | comment(5)

豚キム飯 ナムルを添えて

カテゴリー: 料理:麺類

butakimu1.jpg
 そういえば、韓国に行ってきてからもう1年が経過しました。その時、調べてきた料理や水産物はこちらの記事でご覧になれます。在中、お世話になった慶尚大学の先生と食事をしている時、チゲや煮物には古漬けのキムチの方が美味しいと教えられました。そこで、お土産に買ってきたキムチを冷蔵庫の底で1年間寝かせました。途中、発酵が続いているために爆発しそうになりましたが、時々、ガスを抜いて危機を脱しました。さて、この熟成キムチを使って何を作ろうかな。


 

  恐る恐るパッケージから出してみますと、白菜には透明感が出ています。
butakimu2.jpg

 ニンニクの強い香りが前面に出ていますが、酢酸発酵の酸っぱい臭いも感じます。食べてみると、やはり古漬け特有の酸味が強いですね。この酸味が料理にした時の美味さの素なんでしょうか。




 今日は豚肉と合わせて豚キム飯を作ってみようと思います。
butakimu3.jpg

 豚ロースの薄切りを小口に切って、醤油、酒、おろし生姜の調味液に30分ほど浸します。




 キムチ豚肉を胡麻油でさっと炒めます。
butakimu4.jpg

 香り付けとアク封じが目的なので、豚肉の表面がさっと白くなる程度で結構です。




 やや少な目の水加減をした米に炒めた具を加えます。味付けはキムチの調味液と豚肉の下味に頼ります。
butakimu5.jpg

 お気に入りの炊飯用土鍋で炊き上げます。土鍋で炊きますと香り豊かなご飯が出来上がりますし、うっすらと出来たお焦げがまた美味しいのです。炊飯用土鍋は種類やサイズが多数ありますので、購入に際してはこちらを参考にして下さい。私のは中蓋なしの3合炊きで、丸いデザインが気に入って買いました。




 15分で炊き上げ、30分蒸らします。
butakimu6.jpg

 良い具合で炊けています。ニンニクと胡麻油の香りが立ち登ります。ササッと混ぜて茶碗に盛り付けます。



 キムチの下味だけの味付けなので、やや薄く感じるかも知れません。
butakimu7.jpg

 その場合は前記事で作った薬膳葱ソースをちょっと垂らしながら食べますと美味しさ倍増です。なお、熟成したキムチの酸っぱさはご飯を炊いている間に飛んでしまったようです。




 別居中ですが、ちゃんと食事を作っています。^^
butakimu8.jpg

 でも、韓国のパンチャンのように小皿惣菜をずらりと並べて一人で食べていたら、かなり不気味でしょうね。そう言えば、韓国では一人で食事をすることを相当嫌いますね。単身赴任の人はどうしているのでしょうか。




 これはナムルの4点盛りです。
butakimu9.jpg

 野菜を湯がいて塩胡椒と胡麻油で味付けしただけですが、立派なお惣菜です。真ん中はちょっと閃き、ズイキ(芋がら)をナムルにしてみました。これがまたどんぴしゃり。食材変換大成功、なんだか、色んなナムルが出来そうな予感がします。^^




 今日のスープはワカメではなく、旬の生メカブを使いました。
butakimu10.jpg

 メカブからとろみが出ますので、かき玉にぴったり。生メカブの取り扱いはこちらの記事を参考にして下さい。




 韓国土産の箸(チョッカラ)&スプーン(スッカラ)です。
butakimu11.jpg

 これで器も金属だったら、もっと雰囲気が出るのでしょうが、そうなると器には熱くて手を触れられず、首を曲げて食べなくてはいけないので疲れるのです。でも、これが韓国式の正しい食べ方なんです。


 

 一年間熟成させた韓国土産のキムチ。春先の白菜漬けのように酸味が出てきます。気仙沼では白菜の古漬けをメヌケのアラと酒粕で煮たあざらが有名ですが、韓国でも古漬けキムチはチゲなどでしっかり利用していました。食べ物を無駄にしない精神は日本人のお家芸だったのですが、最近は韓国の方が上かも知れません。韓国ではダシ用に干したスケトウダラの頭も売っていました(関連記事)。ただ、食べ物を無駄にしないがために使い回しが問題になったのは日本と同じです。

2011/03/10(木) 05:00 | trackback(0) | comment(7)