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全く無礼なタイトルですが、お許し下さい。青森2日目は八甲田雪中行軍遭難事件の痕跡を辿ります。ご承知のようにこの遭難事件は明治時代、旧日本陸軍青森歩兵第5連隊が厳寒期の行軍訓練において激しい吹雪に遭い、210名中、199名が死亡したもので、それまでの世界の軍事訓練においても例を見ない大惨事となりました。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とした映画『八甲田山』(1977年)が有名ですが、八甲田山頂を目指したわけではありません。ロシア軍の本土上陸を想定して、行軍が最も困難な冬季に青森から八甲田山麓を横切って、八戸へ向かうためのシミュレーションであったのです。
今から30数年前、映画『八甲田山』の中で神成大尉役の北大路欣也が言ったセリフ『天は我々を見放した』が当時、大流行しましたね。この映画はあくまで雪中行軍遭難事件を基にした作品であり、鵜呑みにしますと事実認識を誤ります。今日は頭を空にして、八甲田山雪中行軍遭難資料館を見学し、ガイドさんの解説に耳を傾けます。この資料館は平成16年に新しく建て替えられています。多くの遺品だけではなく、時代背景や行軍の目的、経過を詳しく解説するムービーや位置関係がわかりやすい電装ジオラマもありました。
こちらは資料館の奥にある幸畑陸軍墓地。八甲田山雪中行軍の遭難者の墓地です。
ただし、納骨はされておりません。遺骨は家族の元へ送られております。明治35(1902)年としては珍しいアメリカ式の墓地です。
こちらは文字が不鮮明ですが、遭難した宮城県出身兵士の石碑です。墓地北側の林の中にあります。このような石碑は宮城県のものしかなく、当時の経済力を象徴しています。
この石碑は遭難事件が発生した年に建てられています。裏面には宮城県出身者の名前が刻まれていますが、不思議なことに公式に発表されている46人ではなく、45人分しかありません。刻まれなかった方は特定されていますが、仙台市の外記丁にちゃんと住所があったそうです。なにか訳があったのでしょうか。。。
この石碑は元々青森市の海に近い公園にあったそうですが、第2次世界大戦後、進駐軍に破壊されるのを恐れて、土中に埋めたそうです。その後、昭和40年に青葉会という団体がこの場所に再建しています。
墓地の南角に小さな社があり、アイヌ犬の狛犬が設置されています。
なぜ、アイヌ犬かと言いますと、遭難者の遺体捜索に北海道のアイヌの方々の力をお借りしてるのです。アイヌの実力者、辨開 凧次郎(アイヌ名:イカシバ)さん等が捜索隊を組み、独自の捜索活動を展開したそうです。その捜索を手伝ったアイヌ犬が、こちらで2匹の子犬を産んだそうで、八甲とベンケイと名付けられました。どちらの狛犬が八甲でベンケイか分からないそうですが、ベンケイは辨開さん等と北海道に帰りましたが、八甲はその後、青森屯営(駐屯地)で大切に飼われたそうです。
ところで、ベンケイという名ですが、弁慶を連想しますよね。実はアイヌには源義経を崇拝する習わしがあるのです。真偽は分かりませんが、義経がモンゴルに落ち延びる際にアイヌ部落に身を寄せ、親交を深めたというのです。実際、女流探検家イザベラ・バードが明治11(1978)年に北海道のアイヌ部落で義経を奉る祠を発見したことを彼女の旅行記『日本奥地紀行』に記しています。
突然ですが、青森と言えばリンゴですよね。資料館から雪中行軍の足取りを追って山に進みますと観光リンゴ園が目立ち始めます。
リンゴ狩りは食べ放題で200円くらいなのですが、今日の目的はこれではありません。
観光リンゴ園の奥にあまり知られていない遭難者の捜索本部と遺体安置所が置かれた場所があるのです。
このような小さな祠が設置してあります。今でも、地元の方が花を手向けております。夜になると行軍の足音が聞こえることがあるそうです。
同じ日の午後3時頃、腕時計が止まっていることに気付きました。
12時40分を指していますが、上の祠を撮影した時間とピッタリ一致していました。これは事実です。
さらに雪中行軍の後を追い、出発した明治35年1月23日の目的地田代の少し手前にある銅像茶屋にやってきました。
青森第5連隊は目的地の約2km手前で吹雪の中、露営を余儀なくされます。悲劇はこのあと本格化します。翌日以降も吹雪は止まず、視界の利かない山野を彷徨い、連隊はバラバラになって行きます。兵士は凍傷と戦いながらも、次々と衰弱して倒れていきました。従って、雪中行軍遭難の地は一カ所ではなく、数キロに及んでいます。
銅像茶屋から250mなだらかな丘を登ったところに直立したまま仮死状態で発見された後藤伍長の銅像があります。後藤伍長は宮城県栗駒の出身です。

発見されたのは出発から4日目の1月27日。直立したままとされていますが、胸くらいまで雪に埋もれており、倒れることも出来なかったのでしょう。その後、捜索隊の軍医が蘇生させ、後藤伍長の口から事態の概要が初めて伝わります。当時(1902年)、無線通信はイギリスで開発されたばかりで、日本の軍隊にまでは普及していませんでしたからね。
後藤伍長は神成大尉とともに青森駐屯地への帰路を探索している途中で力尽きたようです。神成大尉は後藤伍長の100m後方で発見されましたが手遅れでした。後藤伍長は凍死したとしても発見されやすい所を選んで立っていたそうです。彼はこの後、退役して故郷である宮城県栗原郡姫松村に帰り、村会議員も勤めました。
丘を下って、銅像茶屋に戻りますと、話し好きなご主人に捕まり、雪中行軍談義が始まりました。
話が盛り上がって、展示室の中まで丁寧な説明を受けました。世には伝えられていないたくさんの裏話も聞けました。この周辺はその道のマニアが心霊スポットとして騒ぎ立てていますが、ご主人はそのような現象に一切出遭ったことがないそうです。^^
さて、話題はガラッと変わって、遅めの昼食となります。青森と言えば、煮干中華を外すわけには行きません。
前回の青森旅行でも何軒か回りましたが、煮干しの香りが鼻に抜ける青森のラーメンは好みなんです。こちらは新青森駅近くに本店のある長尾中華そば浜田店さん。喜多方ラーメンも取り扱っているのが、ちょっと気になるのですが。。。
基本は煮干し中華ですが、白湯豚骨スープも合わせたコク煮干しもあります。
鳥中華や鳥つけ麺など、鳥系にも力を入れているようです。暖簾のロゴも魚と鳥の合わせ文字ですし。このロゴは同じ長尾グループでも店舗毎に異なります。
こちらが煮干しの中650円です。シンプルながら惹き付けられる魅力があります。
ナルトやノリもないのが潔い。スープも濃厚で、もちろん煮干しの香りが鼻に抜けます。
麺は中細ストレートです。器も懐かしいですねぇ。。。
このスープにして、この麺ありと言わせるほどのベストマッチ。
一方こちらはコク煮干し手もみ麺中700円。
見るからにこってり。豚骨と煮干しの組み合わせが現代的。
コク煮干しの手もみ麺は極太でかなり硬め。インパクトがあります。
縮れがスープを乗せています。かなり噛まないといけないので、手もみの配慮は有り難いです。以前、二郎インスパイアな大二郎というラーメンも出していましたので、この麺が使われていたのでしょうか。近くに大二郎の専門店をオープンさせたので、こちら店からはなくなったそうです。
本日は雪中行軍の痕跡を辿ってみましたが、資料館のガイドさんや銅像茶屋のご主人から多くの裏話を聞くことが出来ました。実は青森から出発した青森第5連隊と平行して、弘前第31連隊は弘前を3日早く出発し、十和田湖の南側を回って、後藤伍長が発見された頃に遭難場所を通過して青森に向かっています。当然ながら遭難の状況も見てきたはずですが、捜索には加わらず、弘前に帰還しています。恐らく情報統制があったのでしょう。弘前第31連隊の復命書にはこのことが触られていませんが、隊員の手記には記されています。やがては全世界に広く知れ渡るのですが、初動の判断が生存者を減らした可能性もあるとのことでした。
バックナンバー
【青森味探訪】① 黒石つゆ焼きそばと三内丸山遺跡
② ウォーターフロントと津軽三味線
③ のっけ丼と新鮮市場
八甲田山雪中行軍遭難資料館
・所在地 :青森県青森市幸畑字阿部野163-4
・電 話 :017-728-7063
・開館時間 :9:00~18:30(11~3月 ~16:30)
・休館日 :12/31、1/1、2月の第4水木曜日
・駐車場 :あり
長尾中華そば 浜田店
・所在地 :青森県青森市浜田豊田150-14
・電 話 :017-739-4174
・営業時間 :10:30~21:00(土日祝 7:00~)
・定休日 :月曜日(月曜が祝日の場合は火曜休み)
・駐車場 :あり